あなたは番目の訪問者です!(4月25日2007年 Counter


伊豆国奇譚
とは?
異説、異論、異聞、奇聞、偶想、愚説、妄想論
によって古来の伊豆国と阿多美(熱海)と伊豆山に触れて行きますが、
熱海と伊豆山の海底遺跡調査の一貫として歴史調査をしています。


     厳重注意 ここに書かれているものは正式な調査によって発表されたものでは有りません。個人として、
       國次 秀紀
独自の調査推理の上に書かれた物です。故に参考にする方はご注意をお願い致します。


伊豆・走湯山は岩戸山(松岳)の巌座(イワクラ)を中心にした神仙的信仰圏であり、本宮
(中の本宮)と岩戸山(松岳)頂上を直線で結ぶ先には霊峰富士山の頂を観ていた。
仏教では日金山は金剛界、岩戸山は胎蔵界としての曼荼羅の世界感を構築している。


 雷電社(光の宮)              伊豆山神社新宮祭殿

                   

古くより巨大な龍と赤白二龍が地底と海中を往ききし住むと言う伊豆山!
伊豆國伊豆御宮としての斎山伊豆山・走湯山にその謎の姿を追います。

 更に詳しく走湯山・伊豆山の地形を考察して見ました。是非共、一見して下さい。
古来よりの祭祀体系、季節を追う為の太陽暦や月暦の見方が解かります。

伊豆国奇譚 伊豆山神社縁起 
        「伊豆神社/走湯(走り井)神社の総本社です」

       末社と想定社含む関係社150社(07'10.28現在)   末社全国分布図150社中86社掲載
                                  
調査には千葉県の鈴木佐(たすく)氏の協力を頂きました。

現在、「熱海の海底遺跡」の歴史調査によって伊豆山神社の祭神を深く調べると、明らかに明治の廃仏毀釈により、神名の書き換えがなされていました。廃仏による神名の改名と神階の破棄にも似たひどいものです。私達「熱海の海底遺跡保存会」では 「走湯山縁起」「伊豆山略縁起」記載の神名と神階を表示する事と致しましたが、本来、祭神を見つけて奉祭奉祀する会では有りません。

しかし此処伊豆山と熱海全域を含んで行われて来た神仏混淆(しんぶつこんこう)の世界観が、独特な文化であり、しいては熱海の海底遺跡での一大港湾都市世界観をも見出せる出来事で有ったと思われる為に、敢えて発表する事と致しました。尚、調べて行く内に異論や推測等を付け加えないと、当時の生活や状況が説明つかない為に異論・愚説伊豆国奇譚として別の角度で説明する事と致しました。神仏に対しての崇拝・奉祭の念は忘れてはおりません
                                                                             
            國次 秀紀 2007.4.28
 


残された「伊豆山神社」「走湯山」資料の中で不思議な記載を見つけ出した。これは祭祀されている神々に付いての事であり、廃仏毀釈の混乱で起きたものでは無く、神仏習合の始まった時から政治的・仏教支配圧力によって祭祀する神の改窮が有った様である。分かった所から記載するが、困惑しながらの祭祀神の改窮をして居り、本来の祭祀神は隠されているが、判った所から最下段に於いて記載するものとする。 尚、天台派と真言派での伊豆山(伊豆・走湯)祭祀神の改窮についても触れてみたが、意外な事が判った。更に、古来は伊豆・箱根・富士山信仰が介在しており、新たなる神々の信仰が浮き上がって居るが、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]瀬織津姫、天照大神荒御魂かむろ姫の娘であるかぐや姫では無く、竹取物語のかぐや姫伝承も浮かび上がっている。「厳神之宮」いつかみのみや→出雲の熊野大社/出雲大社とされて「いつ、いず」の言葉が隠されている。厳神は伊豆(伊都)神では無いのか?

                          伊豆・伊都の語源として参照して下さい。

 


伊豆山神社の古社は、古来より石神信仰や山岳信仰の場所であり、特に船乗り達の方位星神の祭祀をしていました。黒潮に乗ってやって来た船乗り達を守護し、更に東夷の境の地で有って伊豆国より東夷の地の守護鎮守の神として、ここ伊豆山の地へ鎮座しています。当初は船の安全航海と漁業の奉斎の山として、対馬は伊豆山より名を戴く由緒・威厳のある地名となっています。往古日本に於ける、太平洋岸を航海する海人達は富士山を神の山として崇め、又 、伊豆七島周辺で船の航海に差し障りが有った時に、富士山を目指して進み、富士山が見え無くなると、伊豆山は岩戸山(松岳)を富士山の代わりに目指して進んで行くと、迎えて呉れるのが 伊豆阿多(阿陀)の大湊でした。松岳の意味は風を待だけ、修理を待つだけ(船乗り風に考えて見ました(笑))の湊で、阿多湊が阿多美となりました。 特に、松岳(岩戸山は磐座)は山の頂上には松の大木は有りませんでしたが、中腹辺りまでうっそうと松の大木の茂り、守られてる山を土地の者は敬いも込めて松岳と称しました。久地良山(岩手では鯨山)の名称は遠く岩手からの船乗り達が自分達の崇拝し崇める山に似ていた為にこの名前を愛称と尊厳を込めて手を合わせていました。船の守り神としての云われは、その湊の作りにあって、灯台を備え海防に長け、船の修理用のドックや、 食料や水の補給の基地として、更に病気治癒の為の温泉が有ったのです。
古い時代は気候も違い松岳の頂上には杉の大木が生えていたかもしれない!

一般の人達の神聖なる精奇城第一宗廟は伊勢宮で、船乗り達の第一の宗廟とは富士山の高峰を指し、第二の宗廟としての伊豆山松岳(久地良山)があったのです。しかし、阿多美の湊は火山の火口を神の座す地として発展しましたが、度々なる大小の噴火 をやり過ごして来た所、1247年頃の大噴火に伴う大地震によって海底深く沈んでしまいました。これ以後、伊豆山神社(走湯山)は 阿多美への入港税や租税が減る事で衰退の一歩を歩み始めるのです。早くから修験信仰を取り入れ、更に神仏 混淆となって由緒書も書き換えられて今に至りますが、それ以前の阿多美湊の立派さ、走湯山の伽藍の荘厳さは目を見張るものだったと思います。「走湯山縁起」や「伊豆山略縁起」「伊豆山古文書」等から検索し、改めて想起して伊豆山神社の祭祀関係を調べてみました。 全国に有る伊豆神社及び走湯神社総社伊豆山神社です。
    厳重注意 ここに書かれているものは正式な調査によって発表されたものでは有りません。個人として、
       國次 秀紀
独自の調査推理の上に書かれた物です。故に参考にする方はご注意をお願い致します。

爵位・階位 
正一位勲二等関東総鎮護 伊豆國伊豆御宮伊豆大権現(総称)〔式外社〕
           東明山廣大圓満大菩薩走湯大権現(正一位千眼大菩薩)〔式外社〕
          
走湯山雷電大権現(正一位天満天神)〔式外社〕
          
遍照大権現(一品当きさき宮)〔式外社〕
          
六所王子社(正五位)又は(従五位上)〔式外社〕

         正一位千眼大菩薩の授与年は654年白雉5年正月 諸州幼鼠生じ、五穀の災害。緋田鳥丸、勅使
            として攘災の祈祷を走湯権現に行う。
群鼠伏匿す。神徳に賽して「正一位勲二等」の爵位を賜る。

            こうやって、各祭神の爵位・階位を調べていると、有っても良い祭神に階位が付いていない。
           上記の祭神の雷電大権現は式外社正一位天満天神、遍照大権現は一品当きさき宮では無いかと
           思われるが、文献等の資料が無い。参考までに載せて置く。
           (更に、爵位・階位について)
きさき宮とは阿提、阿邸、足代、阿多、阿陀(あて、あた)を古来から
           当てているが、往古、あたみの文字に足代、阿多、阿陀を当てていた。阿多美湊が海底に没して後、
           後継の湊として足代に居を構えるが、足代(あだ)の名称は後に網代と一文字と読み方を変える。

重要な名称(称号)
        
東明山廣大圓満大菩薩走湯大権現 の廣大圓満大菩薩の引用は「十一面千手観音」、
         「千手千眼(せんげん)観音」「十一面千手千眼観音」から来ており、伽梵達摩訳『千手
         千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』の文字廣大圓滿を当てている。
                  伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』[がぼんだつまやく せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ
            こうだいえんまんむぎだいひしんだらにきょう]
 唐西天竺沙門の伽梵達摩
                  594年推古2年 二行の勅額「東明山廣大圓満大菩薩 走湯大権現」これによって菩薩号と神号の宣旨
          を添えて賜る。
(伊豆山略縁起) 故に伊豆國神階帳の「正一位千眼大菩薩」とは伊豆山神社の事を言う。

         遍照大権現遍照とは大日如来の音写では摩訶毘廬遮那如来(まかびるしゃなにょらい)
         と言い、毘廬遮那は偏り無く光り輝く太陽を意味しますので、遍照如来とも言う事から
         遍照大権現の名称を付与されています。

         ◎このこだわりは富士修験信仰と伊豆走湯山修験信仰の中に展開されて行きます。

社号  鎌倉時代には走湯権現走湯社と称せられ、略して伊豆山又は走湯山と呼び、江戸時代
     には伊豆山権現伊豆大権現と呼ばれていました。(東明山とは中の本宮の山号)

祭神 伊豆山神一座(全ての祭神を含めて)
        
廃仏毀釈以降の祭神
火牟須比命(ほむすびのみこと)伊邪那伎命、伊邪那美命
        
 
本来は、火牟須比命=軻遇突智=火産霊では無く→神(日)産霊神、神(日)牟須比命、 神結神、神牟須夫(美)の解釈。
   しかし、旧来の祭神が「走湯山縁起」や「伊豆山略縁起」で解かっていた上での改変の為に火牟須比命=軻遇突智=
 火産霊に龍信仰の意味が込められているやも知れず改変の意味に苦慮している。又、残された資料の中から本来の
 祭神が判っていての謎掛けにも見える。

旧来の祭神は・・・・・「伊豆山権現縁起大略」「走湯山縁起」「伊豆山略縁起」に書かれた祭神
天忍穂耳尊・拷幡千々姫尊・瓊々杵尊
の御大神と、天津兒屋根命、天太玉 命(同名同神とされる:太玉命太玉高御産巣日神)の神を補翼 となし、八十萬の神を伴い、天降りを初めとす。

天忍穂耳尊は
天照大御神の第一子又は月読命とも見られている為、月神天忍穂耳尊とも称される。拷幡千々姫尊は高御産巣日神 の娘、瓊々杵尊は二人の子供
                              「伊豆山権現縁起大略」「走湯山縁起」「伊豆山略縁起」より

伊豆風土記・和漢三才図会・式外神名考・神社考詳節では瓊々杵命を祭神とする。

異域の神のいわれが伝わっています。  箱根権現(伝承)
  
@ 斯羅奈国の霊鷲御前と波羅奈国の次郎王子   A百済王後裔の王辰爾
                           

神仏習合(混淆)前の祭神は○○○○○? →本地→千手千眼観音【千眼(せんげん)大菩薩】
                                                        法体→円鏡 俗体→?  

   伊豆・走湯大神→
「千眼(せんげん)大天女」「福徳大弁財天女 ←富士(富士山)大神

色々な角度や全国関係社・末社で調べて行くと伊豆・箱根・富士の信仰圏が古くに有り、伊豆・走湯神社の総社である伊豆山神社に手を合わせると富士山を拝んでいるのと同じであった! つまり、伊豆山の神と富士山の神は同じと見なせるのだ。これは祭神のすり替えが古くあった事であり、大化改新で駿河國への併合によって伊豆國の消滅の時と思われる。伊豆國伊豆御宮伊豆大権現【総称】東明山廣大圓満大菩薩走湯大権現(式外社 正一位千眼大菩薩)と走湯山略縁起にも記され、伊豆國伊豆御宮伊豆大権現とは前伊豆國の総社・国府(阿多美)で有った。大化改新35年後に再び新生伊豆國となるが、この時は国府の地位・総社格を三島へと明け渡してしまい、政治及び宗教の支配に翻弄されていった。

         ------------------------------------------------------------------------
千時千一夜 ──瀬織津姫&円空情報館 の文中から抜粋させて頂きました。(掲載許諾確認済み)

伊豆大神/走湯大神と富士大神の関係!?

不動明王と弁才天、千眼(せんげん)大菩薩と習合・混淆する神とは?

■弁天と習合する富士山神
此山(富士山)の大神浅間[せんげん]大菩薩と申奉は即[すなはち]天照太神[てんしやうだいじん]の幸魂[さきみたま]にして本御名[もとつみな]は千眼大天女[あさまおふあまおとめ]と申す。天の頂に住給ふ福徳大弁財天女にておはします。

 竹谷さんは「富士山も日本六弁財天のひとつに数えられる」と指摘していましたが(『和漢三才図会』による)、ここで興味深いのは「天照太神の幸魂」「千眼大天女」の存在です。この「千眼」を「せんげん」ではなく「あさま」と訓じていることについて、竹谷さんは、伊豆山の本地仏は千眼大菩薩(千手千眼観音)であることから、富士山と伊豆山(走湯山)修験の関係を読み取っています。

■「あさま→せんげん」の変容過程
 千眼[せんげん]を千眼[あさま]と振り仮名を付けることは、漢字そのものからは成立し得ない。ここには、走湯山の千眼[せんげん]大菩薩を介在させて、解釈する以外に不可能である。換言すると、浅間大神が女神として、千眼[せんげん]大菩薩を移植して、千眼[あさま]大天女に変容し、さらに千眼[せんげん]大菩薩と変容した。形式化すると、浅間[あさま]大神→(走湯山の千眼[せんげん]大菩薩→)千眼[あさま]大天女→(走湯山の千眼[せんげん]大菩薩→)浅間[せんげん]大菩薩、となった。

 富士山の村山修験に影響を与えた走湯山修験が読み取れる論考です。また、富士山神が「千眼大天女」や「福徳大弁財天女」の異名を伝えていることでいえば、日本における弁才天をまつる発祥地とされるのは九州の背振山で、同山の祭神は宗像三女神とされるように、弁財天(弁才天)と習合する神としては宗像神(市杵島姫)が浮かびます。

     千時千一夜 ──瀬織津姫&円空情報館 の文中から抜粋させて頂きました。(掲載許諾確認済み)
         ------------------------------------------------------------------------

由緒 我国第二の宗廟(第一は伊勢大神宮)と崇め関東の総鎮守なり往古より武門誓詞の証明、
         開運擁護の霊神と称し奉る。山中の秘所は八穴の霊道・幽道を開き、洞裏の霊泉は四種の病
         気を癒し、二十六時中に十方の善悪・邪正を裁断したまう事、この御神の御本誓なり。

八穴道とは、一路は戸隠・第三の重巌穴に通ず。二路は諏訪の湖水に至る。三路は伊勢大神宮に通ず。四路は金峰山上に届く。五路は鎮西・阿蘇の湖水に通ず。六路は富士山頂に通ず。七路は浅間の峰に至る。八路は摂津州・住吉なり。


四方の修験霊験所は伊豆の走井(走湯)、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆(鳥取)の大山、丹後の成相、土佐の室生、讃岐の志渡。 土佐の室生は今の四国第二十四番の室戸岬の最御崎寺であり、志度の道場というのは第八十六番志度寺 
 (伊豆の走湯は走井とも書かれる)
 『梁塵秘抄』


創記 人皇第五代孝昭天皇四十二年、迎高天原より天忍穂耳尊・幡千々姫尊・瓊々杵尊の三柱の大
         神と天津兒屋根命、天太玉命(同名同神:太玉命、太玉高御産巣日神)の二人の神を補翼とし
    、八十萬の神を伴いて、此高根(松岳)に天降るとす。
           (前475) 1月9日即位 孝昭天皇四十二年は四百三十三年となる。

伊豆山神社の創設は「伊豆風土記逸文」によれば「准后親房記曰、伊豆別子王子者、景行天皇二十四子武押分命也、伊豆風土記曰、割駿河国伊豆乃埼、号伊豆国、日金峰瓊々杵尊荒神魂」とあり、景行天皇(西暦101)の時、日の峰に瓊々杵尊の荒神魂を祀ったのが創設との説。

走湯山縁起による異国からの神霊説、応神天皇(273)の時代に、相模国唐浜より伊豆山の海に出現した神鏡を神の御霊とし、第一祖松葉仙人第二祖木生仙人第三祖金地仙人の三仙人が 久地良山に祀り、のち推古天皇(594)の頃、麓の海岸に温泉が走るが如くほとばしっているので、社を本宮山に移し、走湯権現の神号を賜ったといいます。

また、天武天皇の時代(699)には第四祖役行者(役の小角)が走湯温泉を開拓して、入浴し、身を清め、霊感を与えられて近くに草堂を営み、嵯峨天皇(822)の頃、第五祖弘法大師空海が走湯山に詣で、仁明天皇の承和三年(836)に甲斐国の僧賢安が、久地良山・本宮から神霊を遷して、現在の地に走湯山東明寺なる祠堂を建立し、走湯山第六祖聖賢安として伊豆山権現を祀ったとあります。このほか、伊豆山略縁起には、天照大神の第一皇子天忍穂耳尊説は、山中の洞穴より湧出する霊泉は、もろもろの病を癒し、二十六時中十方の善悪邪正を裁断し、これを神様の根源として祀ったものであるとし、天孫降臨の際、天忍穂耳尊・幡千々姫尊・瓊々杵尊の三柱が初めて高根(松岳)に降ってきたので、伊豆の大神といっきに祀ると記されている。

日の峰(峯)や日金の峰、日金山と付けられたる由縁は

「走湯山縁起巻第一」
当山者、人王十六代応神天皇二年四月、東夷相模國唐浜磯部海漕、現一円鏡径三尺有餘、無有表裏、順濤浮沈、或夜放光明、疑日輪之出現、或時發響聲、誤琴瑟之音曲、視之為奇異之想、適欲近之波浪荒暴、隠没海底、又或飛登高峯係松朶、或入海中照曜波底、仍時人云二處日金、[二處者、入海登山故也、日金者、光如日音如金如也]、凡無識其事如何、・・・・・

日金とは日輪の如く表裏無く輝く三尺有余の円鏡を述べており、更に其の円鏡は琴の様な奇声を発し、太陽の様に輝くと言う。またそれは二所に現れると言う。一所は高峰の松の枝に現れ、もう一所は海上に現れ、更に海中に潜り海底を照らし、又波浪荒くして暴れるとある。松に架かった所は松岳であり、明らかに日金山とは書かれていないが、正式な場所はこの項では述べていない。時として山に輝き、時として海面と海中に輝くと言う。いでし時は奇譚なる音を発すると言う。

現在の日金山東光寺の位置は古来より重要な場所であり、伊豆や箱根、小田原へ抜ける軍事上の重要な場所でも有り、熱海(阿多美)や伊豆山へも最短の道で有った為、関所の様な役割を果たしていたと思われるが、伊豆走湯権現の西側 富士山よりにあり 、人通りも多く民間地蔵信仰(黄泉に通ずる)と九曜紋の八星と月よる教えの信仰によっても栄えたと思われる。古くより閻魔堂が配置されている。

1)本宮山縁起

伊豆山神社権現山の頂上、こごいの森公園と岩戸山の間、伊豆山字本宮入口に文化九年四月壬申別当週道の建てた石造の小祠があり、その奥の平地に大松が五、六本あり、その後方に は岩戸山が聳え、東は礼拝堂、北は保善の辻に向かい、西南に寺山を眺み、右方に七尾原の住宅があります。今の御宮を伊豆山神社の新宮と呼び、結の峯の早追権現の社の辺りをムスビ平といい、そこにある社を中の本宮といいます。

祭神は天忍穂耳尊・白當辨・福當辨 ・天太玉命・天兒屋根命をまつり、仁徳天皇の御代に松葉仙人が、神鏡をあがめ、社を造り日が峰/久地良山に祀り、のちに中の本宮に社を移し、更に新宮社(現在の伊豆山神社)を建造し祀ったので残った 三番目の社が現在の本宮社ののいわれです。江戸時代初期には拝殿の広さ東西五間、南北三間半、鳥居三ヶ所、付近に求聞持堂、東西三間南北二間の建物がありました。求聞持堂は、斉衡二年(855)乙亥に天台宗の僧安然が虚空蔵求聞持の法を伊豆山にて修行したとき、明星の井戸に星の入る瑞を見て、この山に祀ったといいます。鳥居、求聞持堂、本宮寺高根の神社等は、江戸時代後期に野火の為に焼失し、現在は広い境内に石鳥居一基、拝殿が一宇建っているのみです。近くに結明神が祀られ、中の本宮の側にある。ここには早追権現、飯王子、勧諸仙、倶利迦羅の四祀が祭ってあった。         
                             
「太田君男氏編纂の熱海物語より抜粋」 一部削除と加筆

2)雷電社縁起(その1)走湯山雷電大権現は天満天神信仰も持ち合わせる。

伊豆山神社の祭神天忍穂耳尊は政務の神様で、かっては岩戸山(松岳)に祀られていたが、更 に日の峰の東南にあたって女体を祀ったと伝えられている。中の本宮の辺りは、「こごいのもり」(古々井森)【子此処居】と呼ばれ、ちょうどその方角にあたっています。そして「こごい」は疑火の意味で、雷電社の祭神は雷火を司るといいます。おそらく雷電社は、かって中の本宮にあった古くから祀られたの神で、「豆州志稿」には、もと日の峰にあったが、後に牟須夫峯に移して本宮(今の本宮山)と称し、さらに新宮(今の伊豆山神社の地)に遷座したと伝えられています。

走湯山・伊豆山の 天満天神信仰は古く菅原道真信仰では無く、本来の天津神である瓊々杵尊天神雷電信仰である。

2)雷電社縁起(その2)

1) 雷電社についての記述「走湯山縁起」[巻第四]の巻首に「神記第四雷電、」巻尾に「走湯山
雷電縁起第四」などと記してあり、若宮雷電金剛童子の縁起を述べた物であります。仰雷電金剛童子者、南山熊野王子、東明走湯儲君也、本是震多摩尼菩薩、以二安養補陀落一 為二所居一、迹則雷電(光イ)金剛童子、以二熊野走湯山一為二社壇一爰延喜五年丑乙春三月、南山護法五体王子之中、雷電(光イ)童子出二本社(山イ)一、降二臨大嶋之浄浜一、・・・」とあり、 熊野三山の信仰の影響が、遠くこの走湯山にまで及んで、雷電金剛童子なる新たな王子社(若宮)の創祀をしたようだ。                                              
                                            「走湯山縁起第四巻」より


治承四年(1180)に源頼朝は北条正子が法音尼に日々の勤行を頼んだとき、走湯山と箱根の両権現や三島社と並べて、雷電社と駒形社にも、同じ般若心経一巻を法楽させ雷電社を再建したといいます。特に走湯山雷電社には、室町時代の初めに、相模国厨川村を社領とし、毎日の朝講には供料として、足柄下郡の早河庄小田原京極跡地および池上余藤五郎跡地があてられるなど、崇敬をあつめた社であった。                                   (「三宝院文書」・「伊豆山神社文書」)

また、「真名本曾我物語」には、文徳天皇の時、雷殿を建立するとあり、「北条九代記」には雷の宮(いかずちのみや)と見え、室町時代には走湯山雷電社と呼んでいました。江戸時代には、正月の三ヶ日に走湯権現と役行者堂で天下の安全を祈り、将軍の 不治の祈り、雨乞いの祈祷は雷電社で行っていました。ここの近く軽井沢や大土肥の村社雷電社も日の峰又は松岳から分祠されたものです。
 
また、函南町田代の火雷神社は伊豆雄山より遷祀したもので有ると言われています。天和元年(1681)刊行の「豆州熱海絵図」によると、走湯権現の社殿右に大師堂、左に阿弥陀堂があり、いまの社務所の辺りに雷電社がありました。また、伊豆山神社にある嘉永五年(1852)二月奉納の絵馬にかかれている雷電社は明治九年の地籍図によると伊豆山字坂西五七二番地に雷電社の社地があるので一時ここにも雷電社は(泉蔵坊預かりの社)があった事が伺われます。現在の雷電社は本殿に向かって左側の池の南にあり、昭和十一年十一月に改築されたものです。
                             「太田君男氏編纂の熱海物語より抜粋」と一部修正加筆。

3)白山社縁起 伊豆大神奇魂=菊理媛命

伊豆山神社の末社で祭神は伊豆大神奇魂、菊理媛命、「走湯山縁起」によると、天平五年(733)六月東国に疫 病流行の際、白山の神威によるほかないとの神託があり、夏期の炎天の日に、松岳隅岩蔵谷に白雪が積もる事三尺余り、之を嘗めれば病気が平癒したと伝えている。伊豆山神社裏山北方五百bの高所に、巨厳の重なり立つ霊域に広さ四b四方の社殿(今現在は小祠)が鎮座し、付近は森林 に覆われ神秘の念を起こさせている。社殿の下の広場には柴燈護摩をたいた火の跡がある。昔、岳信仰のの仏徒が修行の際、格好の行場とした場所で、早くから神威が現れたとする場所 である。此処には女陰石と男根石のイワクラ(磐座)がある。                               

4)七尾七社 (伊豆山略縁起)

 七尾七社は松岳の麓の山中に配置したもので深秘口訣とされる。

松岳(岩戸山)山頂は伊豆山の中心となる磐座(イワクラ)であり、その頂上及び直ぐ下の麓に祀る。

天照大御神と須佐之男命との誓約(うけい)の子生み神事によって生まれた子(五男神と三女神)の内、最初に 生まれた
天之忍穂耳を松岳の頂上に祀り、四男神はその東麓に祀り、三女神は 西麓に祀る。

四男神とは
天之穂日、天津日子根、活津日子根、熊野久須毘

三女神とは
市寸島姫、多紀理姫、多岐都姫 (宗像三女神)


5)走湯の役の行者 走湯山第四祖(父親の名字は高賀茂とも、母は渡都岐比売)

役の行者は、またの名を役の小角、更に役優婆塞(寺に入らず仏道を修行する男子の呼称)と言われ、正式な名称は賀茂役君小角(かものえのきみおづぬ)で、一応神道の名家賀茂一族の分家筋にあたる。奈良時代634年(舒明天皇6年)に葛城山の麓、大和国葛木上郡茅原の里、現在の奈良県御所市茅原(ちはら)の三輪神社の社人の家 である「吉祥草寺」で生まれ ました。十二の時から修行の為、葛城山にこもり、十九歳の時、更に修行を重ねて古代から続く山岳信仰の一部を引き継ぎつつ、仏教とその一流派である大乗仏教を加えて、修験道と密教の基を興した。結果、何人もまねの出来ない行の力を持ちましたが、特に、神の導きで飛鳥元興寺の高僧より「孔雀明王経」の教えを受け、密教の奥義を修めること30年余、不思議の術を顕す超人として人々の前に姿を見せるのです。

行力にも磨きがかかり、雨降りに笠も無いのに衣服が濡れなかったり、空を歩き、水の上 を踏んで渉る奇行や、鬼神を従えたり、人の吉凶禍福を未然に知り、奇病難病を呪術で治療しました。 
文武天皇文武3年(西暦699年)66歳、神道派や純粋な仏教派には、異端視されていたのであろう。韓国連広足(カラクニノムラジヒロタリ)は小角を師としていたが、その能力を妬み、小角は妖術で人を惑わしていると偽りを言って訴えた事により、朝廷の疑いを受けて、伊豆大島に流刑にされた。

『続日本紀』などには文武3年(西暦699年)、他の呪術師の訴えによって、また『日本霊異記』では、小角の所業に怒った一言主が、人に憑いて現れ、「行者は国を傾けようと謀っている」と託宣したことが流刑の原因とされている。

伊豆の流されてしまった役の小角は、日中はおとなしくしていても、夜になると、必ず島を抜け出し、海上を飛鳥の早さで渉って、 富士山へ登っていました。ある日、役の行者は海上から伊豆山の峯を眺めると、五彩の瑞雲 がたなびいており、かの山は正しく霊山聖地に違いないと、ひとつ出向いて霊湯(走湯温泉)に 入ろうと、ひそかに伊豆山の磯辺に渡ってくる(実際は船に乗って来たと走湯山縁起に記録)と、波の底から金色八葉の蓮華に菩薩や天仙が 取り巻き、千手千眼の尊像が現れて波間に金の経文が浮かんでいました。経文には無垢霊湯 、大慈心水、沐浴罪滅、六根清浄(霊湯に入れば、もろもろの罪も消えるの意)とあり、役の小角 はこの経文に感嘆して、伊豆山権現を崇尊して源泉(走湯温泉)の近くに、草堂を営み参籠したと伝えられていますが、修行をしながら湯をもって病体を癒していたと思われます。滞在2年後、天皇家の許しにて帰国しますが、帰国の後、一年もしない内[大宝1〜2年(701〜702)]68歳の時、母を連れて旅だったとされます。

山岳信仰はクニトコタチやオオナムチなどを霊山にまつることがあり、実際葛城山では『古事記』の雄略記にも書かれる一言主が古くから信仰されており、一応国津神系の神道だが、彼はその信仰に大乗仏教を加えた。 役の行者である小角の後、修験の行者の内、特に力を持った者は、役の行者と名を冠して、修験信仰に励んでいた。                「太田君男氏編纂の熱海物語より抜粋」と一部加筆。

小角は「鬼神を使役し、様々な奇跡をなした」とされ、前鬼後鬼2体の鬼神(護法)を従えた姿で表される。様々な厄を一切除き、天候すら操る小角は畏敬され、彼のまわりに宗教団体が形成されていく。それが修験道の母体組織となる。701年(大宝元年)彼が68歳の時、母親を鉢に乗せて唐の国へ飛んで行ったと云いいます。江戸時代後期に、「神変大菩薩」の贈名を賜ります。 役行者の修験道は、理源大師聖宝や天台宗寺門派の開祖智証大師円珍に引き継がれ、北の吉野から大峰山に入り金峰山(山上ケ岳)を中心に活動した醍醐寺を中核とする真言系の当山派と、南の熊野から峯入りをする京都の聖護院を中核とする天台宗系の本山派とに別れます。其の外、東北の出羽三山や日光ニ荒山など、全国各地 の霊山とよばれるところで修験道の諸派が生まれました。

余談として
役の小角の故郷には葛城山の麓の低地にもくしら・くじら(奈良県御所市櫛羅)と言う地名の存在が有り、伊豆山の久志良山と同じ様な地名が存在します。

明治5年、明治政府の廃仏毀釈(神仏分離令)により、修験道は禁じられ、多くの堂舎が破壊されるという蛮行にあい、東北の出羽三山や日光二荒山などは神社として生き残り、本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなります。戦後は独立して、現在、本山派は聖護院を中心とする本山修験宗、当山派は醍醐寺を中心として真言宗醍醐派になりました。これに天台系の金峯山修験本宗を加えた三派が修験の主流です。

 修験 修行地開山 富士山開山 は伊豆山の住僧=未代上人は走湯山の修験上人

    立山      701年    滋興上人  白山    717年  泰澄和尚   富士山 1149年  未代上人
  乗鞍岳           円空        笠ケ岳 1783年  南裔上人   槍ケ岳  1829年  播竜上人
  御岳            覚明行者

 
                                          走湯山僧坊配置図

走湯山は上下に二社あり、上の宮、下の宮と呼ばれ、上下ともに鐘楼が置かれ、上下二社には 管理者である上所・下所権大僧都がいました。この上の二絵図を比較すると、小田原道は整備され、現在の仲道と呼ばれる地名を過ぎ、熱海と三島への分岐道へと向かっている。現在の135号線沿いの道は参道階段の所で止まっている。下の宮は滝湯と霊泉(共に走り湯)を祭っている事と、海からの参道となっている様に見える。

右の絵図に小田原道とたきゆ道とに分かれているが、現在の前山田付近で合流していたものと 思われ、阿多美郷より参道を登り、走湯山の見える辺りを下馬峠(下馬郷)とも言った。 どちらにも、元阿岐戸郷(秋戸郷)への道は書かれていないが、場所は詳細に表している。


  厳重注意 ここに書かれているものは正式な調査によって発表されたものでは有りません。個人として、
   國次 秀紀独自の調査推理の上に書かれた物です。故に参考にする方はご注意をお願い致します。

※注意:

「走湯山縁起」「伊豆山略縁起」等を読み下した時、そこには火牟須比命とは一言一句出て来無い!!?のである。明治の廃仏毀釈の折に見誤ったとしか考えられない。 又は神産霊神、神(日)結神と見ていたのかも知れない。

古来、伊豆権現として比定していたのは天孫・神阿多系の神々と見られ、走湯権現 として出雲系の神を当てているが、良く々調べて行くと、元は婚姻・婿入り同一神系だが敢えて二系統として二神系がここの地の伊豆山で結ぶ、つまり互いに手を取り合った形となっている。私観としてかなり乱暴な想定としているが、「走湯山縁起 」及び「走湯山略縁起」を紐解く事で伊豆権現・走湯権現の神名が解明される事と思われる。ここで、伊豆山・伊豆・走湯神社と権現を調べて行くと、天孫と思った天忍穂耳尊(正哉吾勝勝速日天忍穂耳神)走湯神社・権現で も祀られている。これは天照大御神須佐之男命の二神誓約(うけい)に関係している可能性があり、天忍穂耳尊須佐之男命の御子、そして天照大御神の養子の関係が成り立つのかも知れないが、 「走湯山縁起」秘決での口伝の部分では天忍穂耳尊天照大御神の第一子としている。

本宮で祀る神と二系統(伊豆神社、走湯神社)の末社で祀る神は謎とされる一つで有るが、現状では深くは判らない。
さらに、日本神話での説明では天忍穂耳尊はイザナギとイザナミの第二子の月読尊とも語られているが真偽は判らない としても、この件は下段で述べて見たい。
(赤白の二龍と赤白二流の御旗)


伊豆山神社末社・想定社150社(19.10.28 國次確認)を調べる内に二系統の神を祀る事が判って来たが、 「走湯山縁起」での正式な神名は天忍穂耳尊・幡千々姫尊・瓊々杵尊の三柱の大神と天津兒屋根命、天太玉命(太玉命太玉高御産巣日神)の二人の神を補翼とし、八十萬の神を伴いて、此高根に天降るとす。

尚、現在まで整理している部分を参考にして頂く為に第五回定例講演会 伊豆山の神々(改定版) pdfを見て下さい。(現在、正式な祭神へと組み替えています。暫く、お待ち下さい)定例講演会は現在休会中です。

結果として、延喜式による伊豆國火牟須比命神社が式外社 伊豆山神社(権現)の祭神で無い事は明白である。明治の廃仏毀釈の折に、資料も無く無理やりに式内社としたものと思われる。 しかし、現在の広義な解釈では神(日=火)牟須美(夫)[ほむすび]の神としている。
 

  伊豆國 延喜式 式内社と式外社 での正一位の階位・爵位は三社だけ。

  賀茂郡一社   式内社 正一位三島大明神(現在、三島大社)[式外社 正一位記載]

  田方郡二社   式外社 正一位千眼大菩薩式外社 正一位天満天神
           式外社 一品 きさき宮         式外社 一品 当きさき宮
             当きさき宮とは阿提、阿邸、 足代、阿多、阿陀(あて、あた)を古来から当てている。
               尚、一品きさき宮が伊古奈比売(白浜神社)とすると賀茂郡だが、田方郡なのだろうか?

走湯山・伊豆山権現は延喜式では明らかに式外社として正一位千眼大菩薩を充てている。ただし、走湯山として授与している菩薩号は東明山廣大圓満大菩薩走湯権現であり、菩薩号と神号の宣
旨を受けている。さて、この東明山東明寺は中の本宮の神宮寺として建てられたものと思われるが、
建てたとされる場所は現在の奥の院辺りであり、こんもりとした山の頂を形成している。さて、一つ疑問として残るのは天忍穂耳尊に対しての記・紀記載の形容での爵位冠位と思 われる。

これは、〖『神社大系 神社編二十一 三島・箱根伊豆山』《平成二年十二月二十五日 校注者 西牟田 崇生 編集・発行者 財団法人 神道大系編纂会》解題P25の後葉『日本神階帳』には、伊豆山権現も火牟須比命神社も記されてはいないが、巻頭の「正一位三島大明神」に続けてその一族神が記された次に、「正一位千眼大菩薩」「正五位上六所王子」とある千眼大菩薩は伊豆山神社の事であり(伊豆山神社の本地は千眼大菩薩とされる)、六所王子とは伊豆山大権現の御子神六神(岩童子、桜童子、拳王子、金剛童子、白専馬、福専馬)であり、伊豆國には一宮三島神社に次ぐ二宮以下の制は無いが、伊豆山神社は言わば伊豆国二宮の位置を占めていると言えよう〗(読み易い様に漢字を変換)

  正一位千眼大菩薩千手千眼大菩薩とすれば正に走湯・伊豆権現であり式外社である。
 
天忍穂耳尊(正哉吾勝勝速日天忍穂耳神)と比定できる。

  「東明山廣大圓満大菩薩走湯権現」 この神号と菩薩号は天忍穂耳尊のものか?
   おっとりとした菩薩号は天忍穂耳尊に相応しいが、下段の項で解明する事とする。
 

余談だが、熱海市内の式外社 湯前神社は従四位上(阿多美/熱海)湯明神であり、伊豆山の神仏と切っても切れない関係に有るのだが、これも間違った式内社伊豆國田方郡久豆彌神社祭神少彦名命充てていて大変に残念である。この久豆彌神社祭神少彦名命 は、現在伊東市の久豆(須)彌神社として祀られて居るが平安時代後期に阿多美の湯神にあやかって伊東一族の祐親氏が伊東の地へ勧靖したとされる。伊東氏は阿多美の湯神の神本来の姿を知っての勧靖と思われる。

走湯山雷電権現は天神信仰を古くから習合していた。

式外社 正一位天満天神を走湯山雷電権現に充てたいが、文献等が皆無であり、暫く時間を要す様で有る。

天神信仰(てんじんしんこう)は、天神(雷神)に対する信仰のことであり、菅原道真を「天神様」と称して畏怖・祈願の対象する神道の信仰を言っているが、本来天神とは国津神に対する天津神を指して言う言葉であ って、特定の神を指していう言葉ではなかった。道真が死んで後、火雷天神と呼ばれ、雷神信仰と結びついたことを由来とするが、道真の神霊に対する信仰もまた天神信仰と称するようになった。

菅原道真の祟りとされた部分とは
901年、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥(だざいふごんのそち)に左遷される。宇多上皇はこれを聞き、醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。長男高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。道真は、903年大宰府で没した。道真の死後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。
                                     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


本来、火雷天神は天から降りてきた雷の神とされ、雷は雨とともに起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから農耕の神でもある とされる。各地にも火雷天神と同様の伝承とともに元々の天神が祀られていたが、火雷天神が道真と同一視された事によって、各地に祀られていた天神もまた道真であるとされ 、全国に根強く残っている。

この雷電社には「走湯山縁起」「伊豆山略縁起」内に於いて、二つの伝承があり、最初の伝承によっての爵位授与であ ると思いたいが、後者の伝承である「雷電金剛童子者、南山熊野王子・・・延喜五年丑乙春三月、南山護法五体王 子之中、雷電(光イ)童子出二本社(山イ)一、降二臨大嶋之浄浜一、・・・」と記述されている為 、ここからが雷電社の創期とされてしまいます。

しかし、既に以前より雷電社として天津神である邇邇芸命を充てているのですが、時代と共に忘れ去られて行った様です。第二の雷電勧請が熊野より導びかれたとされる所以です。

本来天神とは国津神(くにつかみ)に対する天津神(あまつかみ)であり,天上の神を意味しており、天から降り来る神というイメージから,各地に多くの地域神的神格の天神があったことが知られているが、こうした天に対する古い信仰からつくられた各地域の天神が,ある時期から急に菅原道真の霊をまつった天神と混同されるようになってしまう。しかし、これも神のすり替えに等しいので、注意をしたい。では、そのくだりの所を述べて見よう。

若宮雷電権現'社'祀る所は伊豆権現の皇子、天照大神の皇孫にして、天津彦々火瓊々杵尊なり。一に天饒石国石饒尊と申奉る。(箱根権現の尊親神なり) 初め権現と倶に天降りましまして、人皇五代孝昭天皇四十二年未丁、月の如き霊光を発して、温'泉の中より現れさせ玉い、初木姫に詔りし玉うが故に、往古は月光童子と称し奉りしが、末の世となりて、人の心も偽りにのみ成り行しかば、又新たに信託ましまして、六十代醍醐天皇延喜六年寅丙二月十五日、雷電鳴りはためき、山岳動揺し、社壇の霊石の上に天降りましぬ、故に雷電の宮と崇め奉る。(今新たに荒御霊として祀る、故に今宮と曰く、東鑑の所に言う光の宮是なり)

道俗のうちに拝せしものもありしが、学徒龍勧法師は、独り明らかに拝し奉りきと、云う、同年三月、事の由を奏聞せしかば、叡感のあまり蜀錦の帳、互綾の褥等を附せらる時に、酒泉たちまち日金の北に涌き、音楽自ら松岳の裏に奏して、霊応祥瑞甚だ多しと        (走湯山縁起第四巻大意)

然してより今に、例祭三月十四日大祭を執行し、又毎旦壱人宛て朝講の法楽あり、山中の禁忌汚禊疎略の輩は、必ず神罰を蒙ると云う、此社の辺をなべて古々井の森と云う、古々井は子此所居るの義なり(本山禁忌法、治承六年)

よって、一は天津彦々火瓊々杵尊が最初に降臨したが、二は、後に延喜五年丑乙春三月、再び降臨して荒御霊として祀る。これは、雷電金剛童子者、南山熊野王子 を指している。「走湯山縁起」第四巻では熊野走湯山を持って社壇と為すとしている。 明らかに走湯山は熊野権現の下の地位とでも言わんばかりだ。延喜五年辺りに仏教的・政治的圧力があったのだろうか? ただし、出雲熊野大社に於ける「厳神之宮」より触れるのであれば瓊々杵尊は熊野王子として認められる。

 
故に、走湯山雷電権現の祭神は邇邇芸命及び荒御霊と比定できる。

  『神社大系 神社編二十一 三島・箱根伊豆山《平成二年十二月二十五日 校注者 西牟田 崇生編集・発行
  者 財団法人 神道大系編纂会》伊豆山神社上書P450
に若宮神社と有り、この祭神は本社と同じとするが、肝心なの
 は邇邇芸命、また称して荒御魂宮、また、雷電大権現としている。


古事記では邇邇芸命(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命:あめにきし・くににきし・あまつ ひこ・ひこほの・ににぎのみこと)、日本書紀では瓊瓊杵尊(天饒石国石饒天津彦火瓊瓊杵尊:あめにぎし・くににぎし・あまつひこ・ほの・ににぎのみこと)

瓊々杵尊の身代わりの早さは何を意味するのか? 荒御霊 ・奇御魂というのか?
しかし、良く判らないのが瓊々杵尊の変幻振りであり、月精、月光童子 、護湯童子、伊豆別王子、雷電権現、雷電金剛童子者(南山熊野王子)にもなり、二系統の末社祭祀に関係なく祀られているし、荒御霊的・奇御魂な動きも見せている。

辻別御子とは早追権現の母で、八穴道を治
す神でもあって、更に変様して漕御子となり、迹体九尋青龍となる事で雷電の乗り物とされている。                          
                                                                                                          
    「権現号と大権現号」
  式外社 正一位勲二等関東総鎮守
 伊豆國伊豆御宮伊豆大権現【総称】
        正一位勲二等関東総鎮守  東明山廣大圓満大菩薩走湯大権現(正一位千眼大菩薩)
                      
正一位 伊豆國走湯山雷電大権現(正一位天満天神)
                                                一品  遍照大権現(一品当きさき宮)
                    
注:当とは(阿多、足代、阿提、安邸等の当て字)

       天之忍穂耳命の奥方神は幡千々姫尊であり、遍照大権現と言う。

参考:
式内社は、延喜式がまとめられた10世紀初頭延長5年(927年)には朝廷から官社として認識されていた 神社であり、その選定には政治色が強く反映されている。

参考:官位・爵位においての扱いは難しい為に、近々正確に掲載致します。

参考:当時、すでに存在したはずであるのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持っていた神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺であると認識されていた神社、僧侶が管理をしていた神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿を有していなかった神社などが含まれる。式外社であるが六国史にその名前が見られる神社のことを特に国史現在社(国史見在社 とも)と呼ぶ(広義には式内社であるものも含む)。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 伊豆大神又は走湯大権現の天忍穂耳尊(正哉吾勝勝速日天忍穂耳神)を説明すると!

アメノオシホミミマサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)は、日本神話に登場する神。 古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。

古事記では、天照大御神と須佐之男命との誓約の際、須佐之男命が天照大御神の勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男(日本書紀の一書では次男)で、物実の持ち主である天照大御神の子としている。高木神(古事記では高御産巣日神、日本書紀では高皇産霊神)の娘である万幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)との間に天火明命(アメノホアカリ)と天津日高日子番能邇邇芸命(アマツヒコヒコホノニニギ)をもうけた。
しかし、別書に言うと、二神誓約(うけい)の神事を更に詳しく述べると、天照大御神と須佐之男命との間には、 うとましく思う気持ちがあったが、やがて須佐之男命の方から折れ、自分が何もたくらんでいないことの証明をしようとして、子生みの神事を行おうと申し出た。そこで二神は天の安河において、まずはじめに天照大御神が須佐之男命の身につけていた十拳剣(とつかのつるぎ)を取って三つに折り、歯で噛み砕いて吹き出されると、 霧状の中から生まれ出たのが、多紀理姫命(たきりびめのみこと)を含む三女神達でした。次に須佐之男命が、天照大御神の左右の御角髪(みずら)及びその他に身につけられた球を取り、同じく噛み砕いて吹き出した 霧状の中から生まれ出たのが、天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を含んだ五男神達でした。


◎五男神とは天之忍穂耳、天之穂日、天津日子根、活津日子根、熊野久須毘

◎三女神とは多紀理姫、市寸島姫、多岐都姫 (宗像三女神)

この時、天之忍穂耳命須佐之男命が吹き出だし生んだ神なので須佐之男命の長子御子とも言われる意味は名前の解釈に有って、正勝吾勝とは須佐之男命勝った勝ったとして付けた名前と言われる。天照大御神の左右の御角髪(みずら)及びその他に身につけられた球から生まれたので養子に成ったとも言われる所縁であるが、この逆もありとされている。

この説から、伊豆神社・権現の祭神が天孫・神阿多系と走湯神社・権現の祭神が出雲系の神を祀り、牟須夫 (結)大明神で二つの神が手を結び、本来は一神系と言う壮大な誓約(うけい)が語られます。牟須夫(結)大明神 ・結の峯(中の本宮域)と言われ、祀りの社は奥の院入口のむすび平の地にあります。                         「権現号と大権現号」

   伊豆神社・権現=天孫・神阿多系?   走湯神社・権現/走湯社=出雲系?

    天之忍穂耳命は走湯神社・権現の出雲系の三社で祀っていますが、天孫・神阿多系二社でも
    祀っています。
走湯神社系と伊豆神社系の2系統神(現在、全国に150社)

これは、天之忍穂耳命の出自に対し、「走湯山縁起」の秘決に於いては天照大御神を親とするが、 末社での祭神が正確に判らない為、どちらが本当か・・・一考に値し、考察したい。

葦原中つ国平定の際、天降って中つ国を治めるよう天照大御神から命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。建御雷神らによって大国主から国譲りがされ、再び天之忍穂耳命に降臨の命が下るが、天之忍穂耳命幡千々姫尊との間に生まれた息子の邇邇芸命に行かせるようにと進言し、邇邇芸命が天 降る事となった (天孫降臨)

参考:幡千々姫尊は高皇産霊尊の娘とされるが、高皇産霊尊とは『古事記』では高御産巣日神もしくは高木神(たかぎのかみ)/多賀神『日本書紀』の一書では高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、『古語拾遺』には高皇産霊神、その他にも高御魂命(出雲国造神賀詞)など様々な名前で登場する神。

熱海の近くで祀っていたと言われるのは上多賀神社(高木の大神)多賀地区伝承の話

天之御中主神神産巣日神と共に「造化三神」 と言われ、この後に現れる宇摩志阿斬訶備比古遅神天之常立神を加えて「別天津神(ことあまつかみ)」とも称される。

ムスは生成を意味する言葉で、苔ムスなどと同じで、ビは日・火を表し、この神が宇宙の生成力を神格化した者である事を表している。

同じ「造化三神」である神産巣日神と一対の神で、高御産巣日神が男神で神産巣日神が女神とする説や、この二神は一心同体だとする説など昔か ら様々な説が唱えられている 。

さて、話を元に戻して名前の「マサカツアカツ(正勝吾勝)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「カチハヤヒ (勝速日)」は「勝つ こと日の昇るが如く速い」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられる。「オシホ(忍穂)」は多くの稲穂の意で、稲穂の神であることを示す。天照大御神又は須佐之男命の子生み神事の勝ち名乗り!

稲穂の神、農業神として信仰されており、太郎坊宮(阿賀神社、滋賀県東近江市)、英彦山神宮(福岡県 田川郡添田町)、西寒多神社(大分県大分市)、木幡神社(京都府宇治市)、天忍穂別神社(高知県香美 郡香我美町)などに祀られている。
  

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天之忍穂耳命から引用
http://www.loops.jp/~asukaclub/index.html
神々の宴 明日香さんのページから引用
                                    引用し、一部 修正と加筆して掲載 國次


      伊豆山神社・権現/伊豆神社・権現 走湯山/走湯社/走湯神社・権現を紐解く
   
    内容に可笑しな所が有った場合、分かった所から書き換えを致します。ご了承下さい。

        厳重注意 ここに書かれているものは正式な調査によって発表されたものでは有りません。個人として、
       國次 秀紀独自の調査と推理の上に書かれた物です。故に参考にする方はご注意をお願い致します。


      式外社 正一位勲二等関八州総鎮護 伊豆國伊豆御宮伊豆大権現

伊豆山神社 静岡県熱海市伊豆山上野地 千手千眼大菩薩
旧・国幣小社?(火牟須比命 として)
正式な祭神
伊豆山神社 天忍穂耳尊・拷幡千々姫尊・瓊々杵尊
摂社・雷電社 瓊々杵尊、雷電金剛童子
垂迹 本地
伊豆山三所権現(走湯山大権現) 法体 円鏡 千手観音 千眼大菩薩
俗体 次郎王子 阿弥陀如来  
俗体 天忍穂耳尊 千手観音 廣大圓満大菩薩
  女体 拷幡千々姫尊 阿弥陀如来 遍照大権現
  女体  霊鷲御前 如意輪観音  沙訶沙羅(インド女神)
根本地主二神 白道明神(男形)(手入玉)   地蔵菩薩
早追権現(女形)(早破擬)   大威徳明王
三童子 拳童子(強手) 大聖不動明王
岩童子(日精) 弥勒菩薩
塔本桜童子(軟手) 地蔵菩薩 正観音
雷電    (瓊々杵尊)(雷電金剛童子) 如意輪観音 
月光童子 (瓊々杵尊)(雷電金剛童子)  
護湯童子 (月精) 馬頭観音  
辻別御子 (早追権現の母)八穴道治創   地蔵菩薩
漕御子 (早追権現の母)九尋青龍   文殊菩薩
白専馬(はくとうめ)(馬→女とも書く)※ 普賢菩薩  
福専馬(ふくとうめ) 文殊菩薩  
洋八乙女(娑竭羅龍王ノ御娘)※ 大日如来(胎蔵界)  
床八乙女(娑竭羅龍王ノ御娘)※ 大日如来(金剛界)  

「神道集」巻第二

  二所権現事

  法躰ハ千手ナリ、(中略)
  俗躰ハ無量寿仏是ナリ、  (因位ノ昔ハ、波那国ノ次郎王子是ナリ)
  女躰ハ如意輪観音是ナリ、(女躰ト申ハ因位ノ昔ハ、常在御前ノ御妹霊鷲御前是ナリ)

  雷殿ハ瓊々杵尊及び八大金剛童子ハ権現守護ノ兵士ナリ、本地ハ亦如意輪観音ナリ、
 
A.  拳童子ト申ハ、権現守護ノ王子ナリ、本地ハ大聖不動明王是ナリ、
B.  岩童子ト申ハ、権現給仕ノ王子ナリ、本地ハ弥勒菩薩是ナリ、
C.  塔本桜童子ト申ハ、権現所持ノ王子ナリ、本地ハ亦地蔵菩薩ナリ、
D.白専馬・福専馬ト申ハ、当山鎮護王子ナリ、御本地ハ普賢・文殊両体ノ菩薩是ナリ、
E.※洋八乙女床八乙女ト申ハ、娑竭羅龍王ノ御娘ナリ、此又当山擁護ノ福神ナリ、御本地ハ
    胎金両部ノ大日如来ナリ
F.  根本地主 白道明神 手入玉 速玉男命 早追権現 早破擬明神 泉津解之男命 不確定!
     F.は〖『神社大系 神社編二十一 三島・箱根伊豆山《平成二年十二月二十五日 校注者 西牟田 崇生
   編集・発行者 財団法人 神道大系編纂会》
伊豆山神社上書P448より

「因位」の昔とは、心正しく暮らしたいとは思いながら、とかく周囲の誘惑に負けて心を動かしてしまった昔の心中のくらい位をいい、「果位」とは、心安らかなみ仏の悟りの境地の位である。(因位=久遠)       
                        (空海百話にも出て来る仏教用語)


走湯・伊豆権現とは  二権現=天忍穂耳命・拷幡千々姫尊

               三権現 =天忍穂耳命・拷幡千々姫尊瓊々杵尊

          東明山廣大圓満大菩薩走湯大権現=天忍穂耳命?
                    遍照大権現=
拷幡千々姫尊?
          走湯山雷電大権現=瓊々杵尊


久地良山の地底に臥し、赤白二龍の和合の姿、国土創生の時は大日如来の印文で、伊勢内外宮を中心とする四方四仏の内、東方大円鏡智部が伊豆である。又、二龍臥す久地良山の地底には戸隠、諏訪、伊勢、金峰、阿蘇、富士山頂、浅間、住吉に通じる八穴道あり。金剛界・胎蔵界両部曼荼羅世界として象徴し顕されるが、これは俗躰とされ、法躰・俗躰・女躰を以って走湯権現とされる。だが、この形は本地垂迹だけで語れない荒御霊をも語っている。

根本地主の二神は南浮八埏の地主神なり.

根本地主、二神あり。一は白道明神、本地は地蔵菩薩なり。その躰、男形なり。八穴道に於いて明白なるが故に、白道と云うなり。二は早追権現、女形なり。本地は大威徳明王なり。日々夜々、此八穴道を往反するが故に、早追なり。その故に、天下の善悪吉凶、王臣政務の是非に於いて、取捨勘定を為す。白道明神を以って先引とし、早追権現を以って使者と為し、その事を執行せしむ。或る時は諏訪・住吉と談興す。また、結縁の為に、啓来国の如来(信濃国善光寺)を引攝す。惣じて當所権現の職宰にして、南浮八埏の地主なり。故に、日夜十二時に於いて間断無きなり。

走湯山に於ける走湯権現と根本地主との密接な繋がりとは

走湯権現の浄土に於いて、二十八部衆を従える千手千眼観音の側にいた「使わしめの神人」が「先引」「使者」として働く地主神の姿であり、また、 二人の氏人によって記される。

「一、月光童子、金筐を持す。筐中に如意宝珠と利剣を入れり。宝珠は女躰の財、利剣は男躰の財なり。この神宝は二りの従神と顕れ玉ふなり」「氏人日向記」

「一、権現に二人の従神有り。一は手入玉と云い、一は早破擬」と云う。御在所社内、四神あり。遍照権現・走湯権現・手入玉明神・早破擬明神、是なり」「氏人直木記」

これは、口伝書によるもので、口伝書に添える聖域とされる四至図には松岳(岩戸山)の前に主神の宮と左右の宮が記されており、主神は鏡、左右に宝珠と利剣が配置される三種の神器を表象されている。主神を天忍穂耳尊とし、左殿は手入玉/白道明神(男形)、右殿を早破擬/早追権現(女形)とする「天岩戸と三種の神器」を語っている。つまり、走湯山に於いて、主神と地主神とは主従の関係を超えた相互不可分の性格を持って成り立っている。

さて、此処まで調べて来ると三神の内でおしとやか?で不可解な神が居る事に気が付いた。

「走湯山縁起」等の記述に余り出てこない拷幡千々姫尊は天忍穂耳尊 の后神であり、瓊々杵尊 はその御子とする。その働きは松岳の地下にあって、「みつ葉の殿あり、内に宝石の飾り床あり、女躰住まいたまへり、御年四十路あまり、十五柱の神子連なり、住まい玉へり、世の政治、人のよしあしき法を述べ玉う、また慈しみ、憎みすべき則(規則)を述べ給ふ」と拷幡千々姫尊である遍照大権現を述べているが、これこそが権現の女躰である霊鷲御前を顕すものとするが・・・?

 「正五位上六所王子」伊豆山大権現の御子神六神(岩童子、桜童子、拳王子、金剛童子、白専馬、福専馬)
  は判るのだが、式外社の中で気になる
正五位上 第三王子並一八所御子達は誰を指しているのだろう?
 
『神社大系 神社編二十一 三島・箱根伊豆山《平成二年十二月二十五日 校注者 西牟田 崇生 編集・発行者 財団法人 神道大系編纂会》 より(走湯山古文書P439、一部漢字に戻す及び補字)


気になる文言が【働きは松岳(岩戸山)の地下にあって、「みつ葉の殿あり、内に宝石の飾り床あり、女躰住まいたまへり、御年四十路あまり、十五柱の神子連なり、住まい玉へり、世の政治、人のよしあしき法を述べ玉う、また慈しみ、憎みすべき則(規則)を述べ給ふ」と拷幡千々姫尊である遍照大権現を述べているが、これこそが権現の女躰」であり、萬幡豊秋津師比売命を述べている。この中の「十五柱の神子連なり】とは伊豆山の谷の数を現しており、本来の伊豆山の斎山の神ではないかと思う次第である。

伊豆大神が女神とするならば・・・!

一品  遍照大権現(一品当きさき宮) 拷幡千々姫尊(万幡豊秋津師比売)で見てみると?

《【日本書紀】[本文]栲幡千千姫、[1]万幡豊秋津媛命、[2]万幡姫、[6]栲幡千千姫万幡姫命、[6]別説 火之戸幡姫の女の千千姫、[7.1]天万栲幡千幡姫/玉依姫命、[7.2]丹寫(うかんむりが無い)姫、[8]天万栲幡千幡姫、【古事記】萬幡豊秋津師比売命、【旧事本紀】萬幡豊秋津師姫栲幡千々姫命、

書紀第7の一書では、母親の世代が他説とは一代下っていて、天万栲幡千幡姫の女(むすめ)である玉依姫がニニギの母親であるとしてます。 玉依姫、というと、ニニギの孫であるウガヤ、の叔母で、且つウガヤと結婚した女性と同名です。 果たして、伝承の混乱なのか、単に同名異人か、隠れている真実が顔を覗かせているのか面白いところです。

中国の史書には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、台与が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である台与(壱与)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは後の大和政権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメ伊勢神宮の内宮の三神の一人であり(もう一人はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。

                 参考引用:ニニギ考 [歴史館]・・日本古代史とアイヌ語・・大三元さんのページ

        拷幡千々姫尊 が伊勢神宮内宮の三神の一人とすると・・・? 何かを隠しているのか!?

          伊勢内宮(皇大神宮):天照大神 ご神体:三種の神器の一つ、八咫鏡

          相殿神:天手力男神、万幡豊秋津姫命 (拷幡千々姫尊)

さて、万幡豊秋津師比売は別の説明によると大変な神であり、記紀編纂の折に消された神ともされており、天孫降臨の際の最大の功労者ともされているが何故かその女将軍としての功労と名前が消されてしまうのである。この説は古田史学会報45号西村氏の「天孫降臨の詳察」で詳しく述べており、宇佐八幡の比売大神と見るとされ、本来の香椎宮の女王で筑前の女王としての比売大神としている。 だが、比売大神とするならもう少し確証付けるものが欲しいのだが・・・!
 伊豆大神とは誰ですよ、比売大神は伊豆大神ですよ!
万幡豊秋津師比売が本人ですと明かしている様で伊勢内宮の扱いも相応しい筈だし、更に軍神としての扱いも解かるが、更なる解釈が欲しい所である。

万幡豊秋津師比売の父神は高御産巣日神(高木神)の神で「日本書紀」の顕宗天皇の条には、その事績として「天地を鎔造した功あり」と書かれてあり、この鎔造とは金属を溶かして型にはめてものを作ることであり、日本の金属精錬と鍛冶文化に関わりの深い神なのだ。つまり、金属を鍛造して農具や武器などを作り出す先進文化を司る神格でもある。日本神話のなかで高御産巣日神は「天孫降臨」「国譲り」「神武東征」などの場面に登場し、天照大神とともに高天原の政治の司令神として諸々の命令を発動したり、活発なのである。その活動ぶりは大変に政治色が強くて長老的な政治手腕に長じていたと思われるが、その娘である万幡豊秋津師比売の先見と手腕振りも察する所があるが、それとは逆に機織の巫女から天と豊を冠する宗女に通ずる所も有る。

源氏の神としての八幡信仰、平氏の崇拝した厳島神社にも繋がる展開と見え、東北遠征や九州隼人遠征での軍神・客神・新たなる土地神としての崇拝が見えて来る。

大祓祝詞に登場する禊ぎ祓いの女神=速秋津比売神[ハヤアキツヒメ]の秋津に共通性があるが根拠は判らない?

末社、他社境内社、他社境外社、客社、合祀社、想定社 全国分布図150社中86社掲載


「走湯山縁起」巻第五(見直しと訂正19.6.28)
當山日金者、本名久地良山也 、此地下赤白二龍交和而臥、其尾漬筥根之湖水、其頭在日金嶺之地底温泉沸所、此龍両眼二耳并鼻穴口中也、抑此龍者、昔此国未發之前、海中有法身印文 、中心独鈷輪也、(国常立尊、杵顕迹也) 東円鏡、南宝珠、西蓮花 、北羯磨杵也、此龍背処円鏡、是當東夷境所示現神鏡也、又千手金剛蔵王一具尊也、金峰蔵王役優婆塞勧請之、當山本地千手・(権?)現鏡面龍樹菩薩、示分身為四代祖師 、興行当山、抑此二龍者、日月精気降于地所成也、主陰陽生長萬物、一天魂肝萬有神霊也、以国名号伊豆、伊者三辯宝珠、豆者頭首也、所謂此龍頭頸懸三辯宝珠、是故云伊豆 、此宝珠之上者、即松岳是也、 翠松霊杉茂生、書云山蔵玉草木自茂、云々。可推察之、若有善悪之事、先兆必先震動此山岳是此神龍致喜怒時也、此即権現霊体也、以同人故現俗体也、以円鏡為法身 、以龍體為報身、以千手為應身、以俗体為化身也、
(中略)
此龍有千鱗、鱗各願千手持物之文絵、鱗下各有明眼、生身千手千眼也、此山是補陀洛山九峯院之内別院、明鏡是也、此山地底有八穴道、一路通戸蔵第三重巌穴、二路至諏訪之湖水 、三路通伊勢大神宮、四路届金峯山上、五路通鎮西阿曾湖水、六路通富士山頂、七路至浅間之嶺 、八路摂津州住吉、神后皇宮攝政討三韓之時、於船中示現俗形、従兵不見之、時異国軍兵悉見之、或時権現示霊夢云、伊豆者伊者(恵比須也)、豆者頭也、東境(伊人→恵比須也)、依仰吾神威、於一天下可為頭主也、
云云、
 
巳上高雄寺清涼房真済之記也、
日金参登之路側、月光童子、松下搆菴室、
紀僧正有参籠、行愛染王秘法云云、
有三神與、一番走湯権現、二番女體、三番雷電也、神馬三疋、一辛夷童子、二岩童子、三櫻童子也
 巳上延教之記、

根本地主有二神、一者白道明神、本地者地蔵薩埵也、其體男形也、於八穴道明白、故云白道明神也、二者早追権現女形也、本地大威徳也、日々夜々往反此八穴道 、故早追也、
(中略)
貞観六年
甲申春 、岩童子顕現本地弥勒菩薩也、金峯山金剛蔵王之示現也、形像一如蔵王、或古老傳云、小匂戸菴室役行者本尊也、依蒙冥告奉祝安之云々、元慶三年己亥 、拳童子顕現、不動明王垂迹也、形如夜叉、黄色、右手持三鈷、左金剛拳也 、此社壇跡、本自有大辛夷木(コ ブシノキ)、此樹乾枯之以後、此木中心此神像顕現也、仍立其名字也、櫻童子者、其所有櫻木、花八重枝條茂盛、樹下・樹上常有天童、推神託之処、此砌有崛、崛中有金塔 、天人為供養常来下、殊以開花之時来集、仍搆宝社而奉安置之、 其形天童子也、右手持開蓮。左手持宝珠、巳上三社者権現之王子也、

延喜五年
乙丑雷電顕現 、本地如意輪観音、本是熊野権現王子、今則走湯権現儲君也、委細在彼縁起也、権現女体事、幽玄而人不奉知之、本地弥陀如来、金春造立御祭所、本是女體所安社壇也 、以権現像雖安之、正即女體之宮也、日金頂上権現御坐之時、彼嶺當東南此女體社壇安之、権現自日金岳下降湯浜上之後、以女體移御祭所、仍以古社壇号本宮、以御在所云新宮也 、其形像如天女、持天扇、扇中図開合之二蓮、坐白蓮華、


(中略)
辻別御子、早追権現母儀也、本地地蔵菩薩也、治創八穴道神也、
漕御子、本地文殊菩薩也、迹体九尋青龍也、雷電所乗也、

(中略)
海底大日印文五箇口傳、中心伊勢大神宮、内胎蔵大日、外金剛界大日、中臺、南方高野丹生大明神、宝珠、西方熊野、蓮華、北方羽黒、羯磨、東方走湯権現、円鏡、
日本是大日如来、密厳花蔵浄刹也、四仏安四方天照大神處中心、此海底印文、皆在大瀧之背也、
 真済面授口傳、
云云、
権現、或云異国之神、或見本住之神、是神化無方也、不可令凝滞以一察萬此謂也、
走湯山縁起巻五畢                 延尋記


伊豆山神社の祭祀社(摂社・末社・枝社関係) 【明治四年二月調べ(一部追加)
抜け落ち等が有る場合は追って追加、また現在合祀されたものは分かり次第に明記致します。

摂社 若宮神社(雷電宮)[瓊々杵尊、瓊々杵尊荒御魂宮、雷電大権現]、
摂社二座 [速玉男命]或は称して手入玉明神、[泉津事解之男命]或は称して早疑利明神、
神輿殿[大己貴命]、
神厨[御饌神]、
竈神社[斎火産霊神、奥津彦神、奥津姫神]、
足立社[役小角] 追加
熊野社、
駒形社、
久壽斯神祠 少彦命、
稲荷社
白山社[伊豆大神奇魂、菊理媛命]、
山神社、
結明神[日精、月精、月光童子、伊豆別命]、
尾崎社は尾では無く、御の間違いと思われる。正式には御崎社(みさきしゃ)
下之雷電社[瓊々杵尊、瓊々杵尊荒御魂宮、雷電大権現]、
天神社、
海神社、
水分神社、
御旅所
 左御旅所[
天忍穂耳命、右御旅所[拷幡千々姫尊、左小祠[十五王子、櫻王子、護湯王子]、右小祠[岩王子、辛夷王子、七尾七社神] 以上社地内。 
御嶽社[磐長姫命]、
吾妻社、
秋葉社、
山神社 以上社地外の枝社。
この他、熱海村鎮守来宮明神、初島村鎮守初島明神(初木神社)、稲村の鎮守日枝神社、杉鉾別神社、湯明神(湯前神社)も末社とし、見ている。

末社と想定社含む関係社 150社(07'10.28現在)   末社全国分布図150社中86社掲載


本社(本山)社領地と拝領地(鎌倉後期、室町〜天正時代頃までであり、平安鎌倉期以前は分からず!)

本社領 四里四方 海上見渡す限りでの陸と海上の通交・通行税徴集他を許される。 

正平七年(1352) 足利尊氏より伊豆の国下田の白浜村地頭職

同年正月 足利尊氏より寺領として相模国千葉御内観音免田畑を安堵

正平七年(1352)閏二月 足利尊氏より上野国淵名庄を受領 永らく本社造営料とす。

延文四年(1359) 足利義詮より伊豆山権現社領 駿河国中田保、西島郷安堵

貞治三年(1364)「走湯山領関東知行地注文」による。(国=州)

1.武蔵国 吉田ヶ村(埼玉県秩父郡吉田町付近) 野中村

1.相模国 柳下郷(小田原市)(治承三年) 櫛橋郷(伊勢原市串橋の一帯)(治承三年)
       
金江郷(治承三年受領)

1.上州国 淵名庄半分 

1.伊豆国 丹那郷(函南町) 田代郷(函南町) 大田家村(函南町) 春木村・蛭ヶ小島(韮山) 

       白浜郷(下田) 初島領家職 熱海松輪村在湯屋 山木郷(韮山) 

 山上地・平井楽師堂(函南町) 間宮庄領(三島) 仁科庄内田畑・松下田畠

1.駿河国 冨士村寺 聖一色・伊賀留美

1.越後国 国分寺(嘉永三年受領)

応永十年(1403) 足利満兼より相模国早河庄内小田原及び豆州大塔下村を受領

明応十年(1501)三月 北条早雲より相州上千葉の内の本社領分の替地として豆州田手村を受領

永正十七年(1520)六月 北条氏綱より 相州中郡徳延の地を受領 

◎ 走湯山神領及び社寺地は他にも有った可能性が高い。

  走湯山が数回の火災と秀吉北条攻めにて全山火災となり詳細な資料が無いに等しい。

  更に、明治維新での神仏分離令よって資料を焼却・散在する。


さて、最後に伊豆大神として古来より龍神・走湯瀧神としての記述が漏れていると言うか打ち消されている事に気づいただろうか! 古来より伊豆山は大龍、赤白二龍の住む地として幾度か文献や古絵図等で紹介されている。古来より伊豆国は火山も多く、また温泉も数多く出ていたと思われるが、旧来は薬としての効用も尊ばれていた。しかし、火山の噴火も度々あって恐れの対象にもされていただろう。台風や大雨、強風、 雷、竜巻、地震、火山噴火、温泉の噴出や間欠泉等は全て龍の仕業とされていた。しかし、「走湯山縁起」巻第五(見直しと訂正19.6.28)の項には龍神について詳しく述べている。この「走湯山縁起」巻第五 は走湯山秘訣氏人上首一人他不口傳上と云われ、一般の民衆には語られなかった秘伝なのである。

------→伊豆大神の龍神についての詳細
當山日金者、本名久地良山也 、此地下赤白二龍交和而臥、其尾漬筥根之湖水、其頭在日金嶺之地底温泉沸所、此龍両眼二耳并鼻穴口中也、抑此龍者、昔此国未發之前、海中有法身印文 、中心独鈷輪也、(国常立尊、杵顕迹也)
東円鏡、南宝珠、西蓮花 、北羯磨杵也、此龍背処円鏡、是當東夷境所示現神鏡也、又千手金剛蔵王一具尊也、金峰蔵王役優婆塞勧請之、當山本地千手・(権?)現鏡面龍樹菩薩、示分身為四代祖師 、興行当山、抑此二龍者、日月精気降于地所成也、主陰陽生長萬物、一天魂肝萬有神霊也、以国名号伊豆、伊者三辯宝珠、豆者頭首也、所謂此龍頭頸懸三辯宝珠、是故云伊豆 、此宝珠之上者、即松岳是也、 翠松霊杉茂生、書云山蔵玉草木自茂、云々、可推察之、若有善悪之事、先兆必先震動此山岳是此神龍致喜怒時也、此即権現霊体也、以同人故現俗体也、以円鏡為法身 、以龍體為報身、以千手為應身、以俗体為化身也、 松岳東西麓各有一穴、此龍眼根也、高野和尚以神鏡蔵右眼穴、抱俗躰込左眼穴、山内有十五之谷、十五王子住處也、二龍吐精気赤白交海水、二色浦此謂也、又經柱空中顕、現大般若魔事品・法華壽量品、其文字金色、高野大和尚向虚空以右頭指書写之、又新礒之浜上壇有巌坎、安置三尺金塔、塔上有飛空八天塔、中座釈迦多寶、又塔崛東役優婆塞所穿、清水有之、此自彼龍の鼻根所涌出也、

此龍有千鱗、鱗各願千手持物之文絵、鱗下各有明眼、生身千手千眼也、此山是補陀洛山九峯院之内別院、明鏡是也、此山地底有八穴道、一路通戸蔵第三重巌穴、二路至諏訪之湖水 、三路通伊勢大神宮、四路届金峯山上、五路通鎮西阿曾湖水、六路通富士山頂、七路至浅間之嶺 、八路摂津州住吉、神后皇宮攝政討三韓之時、於船中示現俗形、従兵不見之、時異国軍兵悉見之、或時権現示霊夢云、伊豆者伊者(恵比須也)、豆者頭也、東境(伊人→恵比須也)、依仰吾神威、於一天下可為頭主也、
云云、

伊豆者伊者(恵比須也)、豆者頭也、東境(伊人→恵比須也)、依仰吾神威、於一天下可為頭主也、云云、
ここで言う伊豆者→伊者→恵比須とは東夷の者、東の武士(つわもの)と思われる。ここでの恵比須は夷や戎であると思われ、夷は大きな弓を持った中国東域の武人、戎は甲冑で身を固めた中国西域の武人を表し、ここで言う恵比須とは龍神を味方とする武神と見える。この他、えびすには異域より寄り付く人・神、漂着する神の意味も含まれる。

此処には書かれてはいないが、この巨大な龍には土地伝承があり、龍の背は箱根へと続く山の尾根となって延々と続き、その尾は箱根の芦ノ湖に浸けて居ると云う。この伝承は伊豆から箱根にかけてを東夷の境や結界と見なしていた事にも由来して居ると思われる。足柄道が富士山の噴火によって一時的に使えなくなり、急遽、箱根道の開発が進められたが、それ以前に於いて箱根に入る為には伊豆山領から箱根への尾根道が一番安全とされた。古来よりの信仰では伊豆・伊豆山と箱根は一つの信仰圏を造っていたと思われる。

「走湯山縁起」、「伊豆山略縁起巻第1〜巻第5」、「伊豆大権現御由緒・別当般若院御由緒」、「伊豆権現縁起大略」、「走湯山之記(抃十首和歌)」、「伊豆山記」、「走湯山古文書再録上・下」、「伊豆山神社書上」
『神社大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆山《平成二年十二月二十五日 校注者 西牟田 崇生 編集・発行者 財団法人 神道大系編纂会》 より

この中の最も新しく書き残した部分の昭和三年十一月十日の条には、それまで火産須比命を伊豆山神社の神としていたが、国幣小社として伊豆山神として祀る事となった。又、昭和弐十弐年六月十九日に神庫に奉納された「走湯山古文書再録上・下」を以って伊豆権現・走湯権現の記録は終わる。さて、多くの神官や僧侶に記録され伝えて来た伊豆山神だが、弘法大師以来天忍穂耳命・拷幡千々姫尊瓊々杵尊を三柱として祀っており、祭神の改窮に於いて不思議な謎と違和感に包まれている。廃仏毀釈の折、縁起書の端々に天忍穂耳命・拷幡千々姫尊瓊々杵尊が書かれているのに主祭神として火産須比命を祀る事も不自然だし、では何故本来の三柱を祀らなかったのだろうか? 政治・神祇的に祀れなかった理由が有った事が伺えそうだ。また、最後に綴った「走湯山古文書再録上・下」走湯山秘訣氏人上首一人他不口傳上には、それまでに書かれて居なかった事が書いてあり、本当とすれば神隠しの改窮の答えにも一歩近づくものであろう。何よりも伊豆山の地や伊豆山の神は龍神や大龍神として古来より長く伝えられて来たが、三人の神の中で瓊々杵尊 が雷電神として青龍を乗り物とす、として記されている。では、天忍穂耳命・拷幡千々姫尊の二人の神に於いて、龍神に関わる話は何も記されていない。何故と言わざるを得ない? さて、「走湯山古文書再録上・下」走湯山秘訣氏人上首一人他不口傳上での内容は下記に書いて見た。 口語訳であったが言葉が判り辛い為、漢字を増やし語尾等を直した。

伊豆山の神々の化生譚
人王第五代孝照天皇の御宇、巫女初木 海底より玉の輿に乗りて、現れいで給へり、始め海へを造り致して、屋敷とせり、初木島と申す、人語るに、約して初島(はしま)と云うなり、この巫女は、島より御輿木(みつき)に乗りて、月の初め事に、この久地良山に住む、かようにする事、歳を重ねて後、同じ御宇(歳)四拾弐年と申すに、久地良山に登りて、梺を見れば、湯の泉あり、初木くすみに下りて、之を見るに、清く澄み渡り、いで湯の寒温も整いをれり、
湯の泉の中に、黄金の亀あり、背中の上に月の輪あり、わたり一尺ばかり、神光明らかにして、照り輝けり、ゆかしき聲在りて、この月輪の中より、一人の童子化現せり、月光童子これなり、初木 童子に説いて曰く、即ち温泉の中に、月輪在り、如何なる神ぞや、また光の中より出で給えり、何人ぞや、童子応えて曰く、昔この国の主二柱の命伊邪那岐・伊邪那美と申す神、一女三男を生化ミ給えり、日神・月神・蛭子・素戔鳴尊これなり、一女は天照大神(日神)にておわします、月神はその諱を、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と申奏る、これ吾父也、拷幡千々姫 と申すは、吾母なり天照大神は、國の皇主にして渡らせ給う、正哉吾勝は、國の政主なり、湯の泉を持ちて家として、月の鏡を持ちて、心とし給えり、 

 ・・・・・と祭神の事を述べているが、天照大神の弟、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と素戔鳴尊は兄弟と言っている。それよりもまして月神二柱の伊邪那岐・伊邪那美の子供と言っているのだ。現在、伊勢神宮に祀られている天照大神は女性では無くて男性神と 神祇関係に詳しい方なら知っているが、では「月神はその諱を、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と申奏る、これ吾父也、拷幡千々姫と申すは、吾母なり」としているこの二人の神の本当の姿が気になる所だ。末社関係を調べて居ると、東北一帯では瀬織津姫を多くの伊豆神社で祀り、九州福岡県の伊豆神社では伊豆能売を祀っている!? 更に気づいた事だが、走湯権現社より伊豆権現社の方が古い事に意味がありそうだし、瀬織津姫で調べると熊野三権現も元は瀬織津姫が主祭神と聞き及び、往古に祭神改窮がなされている。 熊野那智大社には斎宮が無く、那智の滝そのものを祭神としており、瀧神=大龍神として古来より祀られている。尚、瀬織津姫は瀧神、河神、水神とも見られ古来より龍神(大龍神)と言われる。

祭神改窮に於いて、どうも修験密教宗派の違いも有る様で、特に天台密教派と真言密教派に於いて神と仏の垂迹で微妙に違いが有る様に見える。これは、伊豆権現や走湯山の神の改窮が真言密教派の方が隠し果せているのに対し、天台密教派は神隠しはさほどしていない事にある。現在の祭神構成は真言密教派による、特に空海によるものが強く働いていると見え、旧来の神は見えて来ないが、それ以前に影響を与えた天台密教派は祭神の名を完全には消し去ってはいないのである。比叡の近くに日吉山王社(日吉大社)が有るが、この中にも勧靖社としての伊豆神社の存在が鍵となる。日吉大社境内の河の側には走井禊殿と言われる小祠が祀られていて、禊の場所として知られて居るが、この走井は走湯の意味が隠されていて、走井は河水・瀧水をさすが、走湯は走井の湯(はしりいのゆ)と思われる。つまり、間歇泉や瀧湯を現したものと見る。日吉大社の勧靖社である伊豆神社祭神は分からないが、走井禊殿と言われる小祠(走井宮)の祭神は禊神の瀬織津姫とされる。下記文章を参照されたい。


533 円仁と円空──北の旅の終焉地・松島へ(2)風琳堂主人

小町神社(小町塚)の近くにあるのが現在の「二ツ森走り明神」である。菅江真澄は『雪の出羽路』で、この「走り明神」について「出羽郡司小野良実卿の氏神と斎奉る神社といへり、今は正一位稲荷大明神とまをし奉る也。此の波志理明神(はしりみょうじん)とはいかなるよしの御神号なるかしらず、古はいといと大きやかに作れる宮処と云ひ伝ふ、今はさゝやかの社なり」と書いている。
小野氏の氏神を特定していうには史料が足りないが、武蔵国多摩郡(現多摩市)にある、かつての武蔵国一ノ宮・小野神社の主神は瀬織津姫である。また、承和五年(八三八)、遣唐船に乗ることを拒んだために嵯峨上皇の怒りをかい隠岐島へ配流された小野篁[たかむら]だったが、彼が都へもどる祈願をしていたのが壇鏡の滝といわれる。この滝神をまつるのが壇鏡神社で(隠岐郡都万村大字那久)、ここにも瀬織津姫がまつられている。小野氏と瀬織津姫はどうも浅くない関係にあるようだ。「小野の里」は比叡山の東西麓二ヶ所にもみられるが、小野氏の本貫地といえば東麓側(琵琶湖西岸)だろう。
比叡山・延暦寺の鎮守神は山王大権現こと日吉大社だったが、その境内社に走井祓殿という小さな祠がある。この祠は比叡山から流れくる大宮川の橋のたもとにまつられている。同社主神も瀬織津姫である。走井祓殿は、比叡山の回峰行者が持ち歩いた「回峰手文」(村山修一編『比叡山と天台仏教の研究』所収)には「走井宮」と記され、その割注には「祓戸神本地弁才天或地蔵或釈迦」とある。つまり、天台宗内部においては、走井神=祓戸神(←瀬織津姫)が習合するのは弁才天または地蔵尊、または釈迦如来という認識である。「回峰手文」には下鴨神社の境内図も載せられていて、そこには「井上ノ弁天」の名もある。下鴨神社の井上社=御手洗社の神が瀬織津姫であることについては先にふれた。
 小町伝説と二ツ森走り明神については、「小町十三歳の都に上る時、(芍薬の)実を取りて走り明神の社内に植置き神に祈りて行末絶滅なからん事を欲す」、また、「弁才天二ツ森の上にあり、小野小町母の守り神を本尊とす」などの記述が散見される(『雄勝町史』)。「走り明神」の本地は「弁才天」だったようだ。菅江が「いかなるよしの御神号なるかしらず」とした謎の「走り明神」は「走井明神」の転じたものとみてよかろう。」  
千時千一夜 ──瀬織津姫&円空情報館 の文中から抜粋(掲載確認済み)
           東北伝説 遠野物語の里から ようこそ風琳堂ホームページへ

ここでの「走り明神」は「走井明神」の転じたものとされ、走井祓殿「走井宮」は明らかに「走井=走湯」から来たものである。つまり、「天台宗総本山である比叡山・延暦寺の鎮守神である日吉大社では勧靖社として伊豆神社/権現を正式に祀っており、更に走井/走湯を「走井宮」として祀っている。 又、琵琶湖西岸には伊豆神社及び伊豆神田神社(合祀・合名?)が鎮座している。尚、伊豆山神社も古来は弁才天を海辺の弁才天崎で祀っていたと思われ、海没により海底に大半が沈むが、一部の岩屋が残っていて、奇岩名称を弁天と弁才天の名を残している。弁才天崎が有った事を証明するかの様に、山の手の中腹には稲村地区鎮守社日枝神社が祀られている。
(
日枝神社の総本宮は日枝山(比叡山)の日吉大社)

  更に詳しく走湯山・伊豆山の地形を考察して見ました。是非共、一見して下さい。

四方の修験霊験所は伊豆の走井(走湯)、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆(鳥取)の大山、丹後の成相、土佐の室生、讃岐の志渡。 土佐の室生は今の四国第二十四番の室戸岬の最御崎寺であり、志度の道場というのは第八十六番志度寺 
 (伊豆の走湯は走井とも書かれる)
 『梁塵秘抄』

この様に見て行くと最初に伊豆國の御宮としての伊豆神社として祀られていた其の中に、新たに湯がほとばしる様が尋常では無く、火山を伴った瀧湯神・走井神と見なし、走湯(走井)神として祀ったものと思われる。この二つを併せて斎山の伊豆山は伊豆山大神と見る事が出来る。ただし、一山に神階 の正一位を二つと一品を一つの計三つ、伊豆山大神の御子神「正五位上六所王子」の神階を 併せて四つも一山に戴く伊豆山神社は他社に比べて只者では無く、更に熱海の湯前神社(境外末社従四位上湯明神)も含めると、神仏混淆の寺社としても相当な力を持っていた事となる。(神階は有力寺社で有った為、全て式外社)


熱海(古名:阿多美)はあつうみの郷と呼ばれ、大港湾都市でもあった。あつうみヶ崎の温泉図絵を見て頂くと龍の姿が垣間見える。 ただし、この絵に見える集落があつうみの郷であり、海没せず現存の土地名は比良の郷、片比良の郷と言った。残念ながらこの絵に見えるあつうみの郷は全て海底深く沈んでいる。 この絵の中にも幾つかの神社や祠が見えるが、あつうみ郷の鎮守神社は正確に南に向いている。遥拝した時に北を望む様に配置されており、其の北方向には伊豆山神社の中の本宮が 鎮座、更に其の先には松岳(岩戸山イワクラ)がある。中の本宮と松岳(岩戸山イワクラ)を線で結ぶと其の先には富士山を正確に指している。海底に沈んでいる鎮守神社には 伊豆神社・走湯神社の始原信仰と思われる太陽(日子/彦)と月(日女/比売/姫)をあしらったモニュメントがあるが、このモニュメントも東西南北をほぼ正確に現している。(水深28m)

 
図をクリックすると更なる説明のページに移動致します。興味有る方はご覧下さい。

厳重注意 ここに書かれているものは正式な調査によって発表されたものでは有りません。個人として、
   國次 秀紀独自の調査推理の上に書かれた物です。故に参考にする方はご注意をお願い致します。

             伊豆国奇譚 國次 秀紀